この度、日本人会への多大な貢献があったとして、第12回定例理事会におきまして満場一致で片桐 悠爾氏(TMI,INC.)、中嶋則夫氏(マイクロネシアンホスピタリティーインク)の両氏を日本人会名誉会員に承認されましたので、「ラッテ」紙上にてご紹介させていただきます。

*中嶋則夫氏のプロフィールです

茨城県龍ヶ崎市出身、大学では会計学を専攻し、1975年4月不動産会勤務され、1976年7月に当時のホテル・トロピカーナに経理担当として赴任されました。1978年2月に転勤辞令を受け一度日本に帰国されますが、1981年11月馬場コーポレーションに入社され、傘下各社の運営にあたられました。1984年4月同社バス事業部門であるマイクロネシアン・ホスピタリティ・インク(MHI)総支配人に就任されています。MHI社は、2008年株式が馬場コーポレーションからサンコーエンたタープライズ・インク(SEI)に譲渡され、現在はSEIグループの一員となっています。

中嶋氏と日本人会との関連は、次の通りです。

日本人会理事4期(x3年、会計部長、教育部長、文化部長、副会長を歴任)、他に学校理事、補習授業校PTAや日本人会20周年記念行事委員等

その他の役職

グアム政府観光局理事、日本グアム旅行業協会役員、Employers Council理事などを歴任、趣味の分野では1991年ゴルフのお仲間とグアム九十九会を設立されています。

 

*片桐悠爾氏からはプロフィールに替えて、『日本人学校校歌制作秘話』メッセー  ジをいただきました

私が、ジャルパック社の責任者として初めてグアムに着任したのは、1987年1月11日でした。当時日本人会会長だった日本航空の故山口俊一支店長とともに青年部長として運動会と秋祭りを担当したことを懐かしく思い出します。

当時、グアムの日本人旅行者が増加中で、日本企業の進出も盛んになる中、駐在員家族の声として、全日制の日本人学校の設立を望む声が高まりつつありました。1989年に全日制は開校されてはいましたが、ホテルを校舎代わりに転々と使用しておりました。

山口会長と当時教育部長だった淺沼組の波多野進氏の夥しいご努力により、校舎の建設に向けた文部省(当時)との交渉が始まり、1989年に校舎の建設が始まりました。地元日系企業による資金面の援助があったことは言うまでもありません。

1989年校舎建設の槌音が聞こえる中、山口会長は、グアムをこよなく愛し、年に数回もグアムに来島されていたプロの作曲家浜口庫之助さんに、校舎竣工に合わせて日本人学校校歌を募集することから、その審査と校歌の作曲を依頼するところとなりました。

浜口庫之助さんは、校歌の作曲は名誉なことであるとひとつ返事で引き受けてくれたそうです。もちろん無料で。応募された作品は全部で12作品。

浜口先生は、それらすべての応募作品に曲をつけ、自らのピアノ伴奏に合わせて当時中学生であった一粒種の娘“あんずさん”が歌い、録音されたカセットテープを楽譜とともに応募者全員にプレゼントしてくれました。私も校歌募集に応募した一人でした。

応募者12人の中には、スミス先生やLAMLAMの社長だった手塚さんの奥様ほか多数の生徒さんがいらっしゃったことを覚えています。

とにかくスケールの大きな歌を作りたいと思いました。新しい世紀を担うという意味から、文化と平和と歴史を1番から3番に当てはめ、グアムを舞台に育った子供たちが日本と世界を舞台に大活躍する未来を思い描き、「日本のために、世界のために」と書きました。

浜口先生、山口会長、波多野部長らによる応募作品の審査を経て、私の作品が校歌に決定された訳です。応募者の名前を伏せての審査だったことは言うまでもありません。

1990年、濱口先生には、奥様とご一緒に竣工なった校舎での入学式に参列していただきました。私にとっても晴れがましいひとときでした。いくつかの日本の新聞にも報道されました。

大きな学校行事のたびに、生徒さんたちに大きな声で校歌を歌っていただくとき、感無量の思いに浸ることが出来ます。私のとって最高の名誉であります。

また、校歌の応募がきっかけとなり、プロの作詞家への道が開け、「グアム島音頭」や「南の島はパラダイス」などを世に出すことも出来ました。

日本人学校ある限り、この校歌が歌われ続け、生徒さんたちが大きく成長してゆかれることを心より望んでおります。