~レオパレスリゾートグアムの生みの親、次に目指すはJリーグ!~

 今回はレオパレスリゾートグアム前社長の宮田博之さんにお話を伺います。同社の経営者としてグアムに赴任され、約3年間のグアム生活を経てこの度日本へ帰国なさいます。今後はプロサッカーチーム「FC岐阜」の社長として経営にあたられます。

宮田 博之さん

宮田さんは経営者としてこれまでも、これからもバラエティに富んだプロフィールをお持ちですが、グアムに関わるようになったきっかけについてお聞かせください。
大学を卒業して入社した住友建設の海外事業部で営業担当としてアメリカ西海岸やハワイエリアの開発に携わっていた時期がありました。このころ、グアムはアメリカのはじっこの小さな島ではなく、アジアにおけるアメリカの玄関口であることを見出し、グアムに大きな可能性を見ました。そして1987年ころから出張ベースでグアムを訪れるようになり、渡航はその後の5年間で100回を超しました。
具体的なグアム開発事業があったのですね。
グアムの開発誘致の営業を重ねる中、とあるクライアントからグアムに可能な限り広い土地を紹介してほしいと仕事の依頼を受けました。土地の広さにこだわり、そこに一大リゾートタウンを建設する計画でした。これがのちのレオパレスリゾートグアムです。当時、金額にして住友建設の年間事業規模のおよそ半分となる大規模事業を受注したことで、その後の生活は日本とグアムを忙しく行き来する日々が続きました。

そしてようやくこぎつけたその起工式当日に、奇しくも海外事業部から社長付きの本社秘書課への異動命令が下りました。青天の霹靂でした。

営業手腕を買われてのご栄転ですが、現場で奮闘してきたグアムとの関わりは一度断ち切れたのですね。
その後、日本はバブル経済が崩壊し、非常に厳しい時代に入りました。建設会社も多額の不良債権処理に追われました。その財務再建に携わり、何とか立て直しに成功しました。そして2008年からは同じように財務再建が課題となっていた不動産業界の会社経営に携わることになりました。こちらも苦しい時期を迎えていましたが何とか順調に推移するようになりました。
厳しい時代の財務再建に奮闘されたのですね。2005年には住友建設の社長に、翌年には同社副会長に就任された。そして2009年には株式会社レオパレス21の取締役専務執行役員に就任され経営手腕を発揮してこられた。
そして運命のいたずらか、あの日、起工式当日に現場を去ったレオパレスリゾートグアムの社長に就任しました。2012年のことです。それから今日までグアムに移り住んで同社の経営にあたってきました。
グアムでも精力的に邁進され、在任中はグアムの政府関係者や文化人を巻き込んでツーリストとローカルの文化交流の場を次々に生み出されました。
グアム知事と会談し、これからのグアムに必要なことや可能性について協議を重ねました。政府は2020年までに来島者数200万人を目指しています。それを達成するにはツーリズムのオフシーズン対策を検討しなければなりません。課題と可能性を見出したら、次にそれを解決、実現するための方策を考えます。そして今度は音楽家でもある在グアムイタリア名誉領事を訪ね、彼を巻き込んでクラシック音楽のコンサートを開催しました。
その活動はグアムのツーリズムにおいてこれまでにないビジネスモデルを作ることとなり、ツーリズムの多様化に貢献されたことが評価を受け、昨年12月にはグアム観光大使への任命を受けらました。新しいビジネスモデルとは、いったい何がこれまでのものとは違うのでしょうか。
従来の考え方は、単にグアムでイベントを開催して観客として旅行者を誘致するというものでした。私が提案したのはその逆の切り口です。例えば前述の音楽コンサートですが、これは日本で音楽を趣味で楽しむアマチュアの音楽家10人が集まってグアムへ来て公演したものです。日本ではプロでもない限り、披露する機会を得ることは簡単ではありません。大がかりな資金やコンサートホールの手配等が必要だからです。しかしグアムならもっとシンプルに披露の場を用意することが可能です。そしてローカルの観客は幅広く音楽文化が成熟した海外からのライブに興味を持っています。演者からすればそれは海外公演であり、また演者はアマチュアですから会場はより観客との距離が近く、違う国の観客を前に、日本で味わうものとは違う特別なまなざしを受けて演奏を披露することになります。それは時に日本での上演以上に大きな感動を得られることがあります。
なるほど。海外での文化体験として、従来の受け身型ではなく、発信型の文化交流が発信する側の参加者にまた違った感動を与えているわけですね。
そうです。同様にグアム知事杯国際合唱フェスティバルというイベントも企画催行しました。日本と地元グアムから合唱愛好家のグループが集まり合唱コンクールを開催したのです。日本全国には5,000を超えるアマチュアの合唱グループが存在すると言われています。そして彼らもやはり披露の場を求めています。可能性のあるマーケットとして特筆すべきは、彼らの多くは中高年であるということです。お金と時間に余裕があり、それらを趣味への情熱に注いでいる人たちです。海外での上演は、単に披露の場を得るだけでなく、それを異国で行うことで、より特別な、非日常的な文化交流体験になります。ただし高齢のため長距離移動や時差は敬遠される。そこで安全、近距離といったセールスポイントを持つグアムに大きなアドバンテージがあるのです。そして当然彼らは演奏しに来るだけでなく、美しい南の島グアムの観光や食事を楽しんで帰ります。
グアムのツーリズムには新しい考え方次第でまだまだ大きな可能性があるということですね。
このような日本人の国際化という観点からグアムには大きな可能性を感じます。今後世界はますます国際化が進みます。日本は真の国際人を育成する必要があります。これまで日本の国際化はほとんどモノづくりの世界に限定されていました。そして世界ではモノづくりの主役は今や日本ではなくアジアで台頭する国々にシフトしました。日本の次なるステップは、コンサルタント、マネジメント、金融、法務などの分野を舞台とした、人的なソフト面を国際化していくことです。それにはまず英語が不可欠です。グアムは日本やその他アジア諸国にとって英語を学ぶフィールドとしても、もってこいのディスティネーションです。アメリカという英語圏でありながら、近距離で治安が安定しており、多様な民族と文化を受け入れ、人種差別がない。そういう意味で来島者増に向けたターゲットに語学研修マーケットを加えることもできます。
宮田さんご自身はどのように英語を学ばれたのですか。
住友建設入社6年目に会社の英語教育プログラムの第一号としてボストンへ1年半の留学を経験しました。下宿先のホストファミリーと居候の仲間に恵まれ、そこで英語力を高めました。ホストファミリーはボストン大学工学部教授のご家族で、下宿先は10以上のユニットがあるマンションのような建物でした。当時私を含めてすべて国籍の異なる10人の留学生がいて、英語以外でのコミュニケーションは不可能という状況にありました。各留学生は、各自月に二度料理番として全員の分の夕食を作るというルールがあり、一緒に食事をしながら英語で語り合いました。私はいつも日本の焼きそばとカレーを振る舞いそれが好評でした。

(奥様)そのころのお話はあまり聞くことがありませんでした。当時私は次男を身ごもっていてこちらも毎日奮闘しており、単身渡米した夫の生活をはかり知る余裕がほとんどありませんでした。留学当時のお仲間は皆さんその後日本にも遊びに来られましたし、夫は今でも交流を続けています。人とのつながりを大切にする人なんです。彼は毎年800通もの年賀状を全て毛筆の直筆で書いてお送りしています。

(奥様が随所で宮田さんの人柄をほめる様子が印象的です。)お二人の馴れ初めは?
田舎の祖母が、男は三十歳までに身を固めるべし!と、30枚ほどのお見合い写真を包んだ風呂敷包みを持参し置いて行きました。照れくさ半分に放っておいてくれとその場をうっちゃり、そのあと一人になって縁側に腰掛けて包みを解いたのを覚えています。大きくて豪華な台紙に着物姿で撮影した仰々しいお見合い写真の束をめくっていく中、ひときわ小さな封筒からスナップ写真がするりと落ちました。そこに写っていたのは飾り気のないジーンズ姿の女性で、それを見たとき直感的にビビっと来ました。仲人も介さずに直接先方の自宅に電話をかけ、翌日に会い、5か月後に結婚しました。三十歳を目前にした29歳11か月の門出でした。以来一度の夫婦喧嘩もありません。
今後はご夫婦で日本へ帰国され、宮田さんはプロサッカーチームFC岐阜の社長となられます。
サッカーに関しては4つの部門があると考えています。①監督や選手②事務スタッフ③ファン、サポーターの皆様④スポンサーの皆様 です。これらの皆様と十分なコミュニケーションを取って一つの大きな力にまとめることが私の仕事です。スピード感のある経営で次のステップ、さらにその次のステージへとチームを進めていきます。そしてファンやスポンサーの皆様にチームの変化を感じていただき、「よし応援しよう!」と思っていただけるようにしていきたいと思います。

 興味深いお話をたくさん聞かせていただき、あっという間に時間が無くなってしまいました。宮田さんの、心を開いて人を大切にする姿勢が、ジャンルの異なる様々な企業経営を成功させる経営者の求心力なのかと思いました。

 また、奥様との結びつきの強さを感じ心が温かくなりました。多忙な企業戦士でありながら、夫婦仲の良い穏やかな家庭に生きていらっしゃることに感銘を覚え、その大切なことを学びたいというという気持ちになりました。また是非お話を聞かせてください。

インタビュアー 編集委員 小松英悟